「春、花はまだほころびぬ」
子どもの頃の冒険は、いつもの曲がり角をひとつ通り過ぎることだった。
見知らぬ景色を見るために、最初の一歩を踏み出した。
自分でも不思議なほど、新しい世界へのためらいや不安などを感じない。
なぜならそこにはきっと、かけがえのない誰かが待っている。
優しくて懐かしく、そして嫌になるほど馴染んだ旧い世界に背を向けて、真っ直ぐ前へと進んだ。
それが二人の出会いのはじまりだった。
――しまった。
駅からしばらく歩いて、すぐに後悔した。
初めて来た街のため、まるで勝手がわからない。
無理をしないで迎えを頼めばよかったと、今さらながらのことを悔やみ荷物を下ろした。
肩に喰いこむほどの重い荷物ではあったが、それが今現在の彼が持つほぼすべてだと言われれば、あまりの少なさに途惑うことになるだろう。だがそれはほぼ間違いのない事実で、彼は自分自身の他には僅かな着替えと、そして片時も身から離すことのない竹刀だけを道連れに、日本各地を転々としていた。
どこかに強い剣士がいると聞けば行って確かめずにはおられず、どこかに強い流派があると聞けば押しかけずにはいられない。まったくもって迷惑極まりない剣術馬鹿だが、当人でもその衝動を止めることが出来ないのだ。
自分という人間は、一体全体どうしたいのだろうか?
そんなことを考えながらも体は勝手に動き出して、今日もまた強いと噂の道場を求め見知らぬ街に流れ着いてしまった。
以前世話になった道場主からの紹介なので、迎えを頼めばすぐにでも来てくれるのだろううが、そうもいかない理由がある。
さてどうしたものかと、途方に暮れる彼の足元に、なにかが勢いよくぶつかってきた。
「え?」
「こんにちは!」
人の気配には聡い、そんな自負があった。
しかし今ぶつかってきた相手の気配は、まったく感じ取れなかった。
勘が鈍ったのかと困惑する彼の気持ちなどまるきり無視して、まだ幼稚園児くらいと思しき幼い少女は元気よく挨拶をする。
彼は途惑いながらも、礼儀として軽く頭を下げた。
「こんにちは!」
少女はなにが楽しいのか、にこにこと笑顔を向けてくる。、なにがしたいのかさっぱり理解できない彼の前で、なおも彼女は挨拶を繰り返した。
どうしたものかと押し黙る彼に、彼女の顔が曇りだした。
まずい、泣く――そう思った瞬間、少女は大きく口を開けて泣き出した。まさに青天の霹靂、なにが気に食わなかったのかもわからないまま、彼女は大粒の涙を惜しげもなく溢れ出させ泣いている。
彼はおろおろとポケットを探り、ハンカチを引っ張り出した。
「泣き止め」
さすがに我ながらもう少しマシな言い方はなかったのかと思う。そんな言葉で泣き止むのであれば、最初から泣き出したりなどしないだろう。
矢張り少女は泣き止むことをせず、差し出したハンカチは宙に浮いたままになった。所在無く立ちすくむばかりの自分にがっくりと肩を落しつつ、致し方なく地面に膝をついた。
自分の膝までくらいしかない彼女の視線に合わせるため、しゃがみこんでハンカチを差し出す。泣きじゃくる子どもの世話など生まれてこの方したことはないが、とにかく泣きやませなければとハンカチで涙を拭い、頭をぽんぽんと撫でた。
彼女の視線は、じっと彼に注がれる。まだ泣き止みきらない濡れた黒い目が、大きく見開いたまま覗きこんでくる。
苦手だと、本能的に感じた。
なにもかも見透かすような眼差しが、後ろめたいことなどないのにどうにも居心地が悪い。
これがもし真剣勝負の真っ只中であるのなら、むしろ腹の探り合いも先手の読み合いもまた楽しいものなのだろううが、ただじっと見つめられるという経験はあまりない。
なにかを探っているような気配はするのだが、少女がそれをする必要性がわからない。そのためただただ居心地悪くて、勝手に体が引けてしまう。
やむなく自分もじっと見つめ返すと、泣いていた顔がぱっと明るく晴れ渡った。
「おにいちゃん、こんにちは!」
「……こんにちは」
「はじめまして、はるかです!」
「はじめまして……」
「おなまえは?」
「護」
素っ気なく返したのに、遥と名乗った少女は嬉しそうに笑った。
そればかりか、両手を広げて護に抱っこをせがんだ。
「どこの子だ? 家がわかるのなら送ってやるから、抱っこは勘弁してくれ」
「いや!」
「いやじゃなくて……迷子はおとなしく言うこと聞いてくれないか?」
「はるか、まいごじゃないもん。まいごはおにいちゃんだもん」
咄嗟に道場の子かと考え付いたが、聞いた話ではこんな小さい子どもなどいなかったはずだ。であればなぜ自分が迷子になっていることを知っていたのか、どこでわかったのか、護は眉を顰めて遥を眺めた。
見た目のあどけなさに惑わされて、なにかとんでもない本質を見落としている気がする。
注意深く見つめる護に、遥はくるりと上半身を反転させるともと来た道を指差した。
「きょうはケーキやさんおやすみ。おだんごやさんはあいてるよ」
「なんでわかった」
甘党であることは、隠してもいないが公言もしていない。
そのツラで甘いものが好きなのかと、揶揄されることが煩わしいからでもあり、自分でもほんの少しだけ恥かしいと思っているからだ。ことさら広めるでもないことだし、護の甘いもの好きはまだそれほど知れ渡っていないはずだった。
なにより今日はじめて会ったばかりの少女に、それを見透かされ指摘されるなどありえない。
黙ってしまった護に、遥はにこにこと笑いながら両手を差し出した。
「おむかえにきたの」
「俺をか?」
「うん」
「なぜ?」
「だってはるかは、おにいちゃんのおよめさんだもん」
胸に生じた疑問と、放たれた言葉の乖離具合で頭が痛い。
剣術一筋で男女の色事など面倒臭いで通してきたというのに、ここへ来てこうなるとは思いもよらないことだった。
たかが子どもの言うことと、一笑に付すのは簡単だ。だが先ほどからの奇妙な符丁に、妙な胸騒ぎがする。
目の前にいるのはどう見ても子ども、それもまだ年端もいかない幼子。
自分はこんな幼い子に手をつけるような真似をしたのか、それともこれからするのか、だとしたらとんでもなく拙いことになるのではないかと、頭の中がいまだかつてない混乱に襲われる。
逃げることも考えたのに、遅れをとった。
いつまでも動かない護に焦れたのか、遥からひょいと護の胸元へ飛びこんできたのだ。
抱きつかれたことにどうしていいのか、つい万歳と挙げてしまった両腕の行方や、満足そうな遥の様子や、こんなところを見られたらどうなるのか、考えすぎているうちに逆に吹っ切れてしまった。
ままよと遥を抱き上げて、重い荷物と竹刀も抱えた。
「家はどっちだ?」
「おだんごやさんは?」
「あとで行く」
「またまよっちゃうよ?」
「大丈夫だ」
とりあえず少女が来たと思しき方角へ、足を向けて歩き出す。
楽しそうに話しかけてくる少女の声は華やいで、もうすぐ来る春の季節に似合っていた。どこかの庭からはみ出している木々の枝も、綻びはじめた芽を見せる。やがてどこからともなくウグイスでもやって来て、この少女も赤いランドセルが背負うのだろう。
いい季節だと目を細めてながら、少女を抱えゆっくりと歩いた。
このところずっと剣術修行に追われて、季節の移ろいを感じる暇もなかった。
偶にはこうして歩くのも悪くない。
そう思いはじめた頃、両腕の重みがずっしりと増した。
寝てしまったのだと気付いて、足を止めた。
曲がり角まで差し掛かって、どちらへ向かうべきなのかきょろきょろとあたりを見回したとき、ちょうどそこに青ざめた顔で走り寄ってくる女性と出くわした。
母親だとすぐにわかって、護は声をかけた。
こうして小さな女の子と迷子の剣士の冒険は、彼女の眠っている間に終わってしまった。
見知らぬ景色を見るために、最初の一歩を踏み出した。
自分でも不思議なほど、新しい世界へのためらいや不安などを感じない。
なぜならそこにはきっと、かけがえのない誰かが待っている。
優しくて懐かしく、そして嫌になるほど馴染んだ旧い世界に背を向けて、真っ直ぐ前へと進んだ。
それが二人の出会いのはじまりだった。
――しまった。
駅からしばらく歩いて、すぐに後悔した。
初めて来た街のため、まるで勝手がわからない。
無理をしないで迎えを頼めばよかったと、今さらながらのことを悔やみ荷物を下ろした。
肩に喰いこむほどの重い荷物ではあったが、それが今現在の彼が持つほぼすべてだと言われれば、あまりの少なさに途惑うことになるだろう。だがそれはほぼ間違いのない事実で、彼は自分自身の他には僅かな着替えと、そして片時も身から離すことのない竹刀だけを道連れに、日本各地を転々としていた。
どこかに強い剣士がいると聞けば行って確かめずにはおられず、どこかに強い流派があると聞けば押しかけずにはいられない。まったくもって迷惑極まりない剣術馬鹿だが、当人でもその衝動を止めることが出来ないのだ。
自分という人間は、一体全体どうしたいのだろうか?
そんなことを考えながらも体は勝手に動き出して、今日もまた強いと噂の道場を求め見知らぬ街に流れ着いてしまった。
以前世話になった道場主からの紹介なので、迎えを頼めばすぐにでも来てくれるのだろううが、そうもいかない理由がある。
さてどうしたものかと、途方に暮れる彼の足元に、なにかが勢いよくぶつかってきた。
「え?」
「こんにちは!」
人の気配には聡い、そんな自負があった。
しかし今ぶつかってきた相手の気配は、まったく感じ取れなかった。
勘が鈍ったのかと困惑する彼の気持ちなどまるきり無視して、まだ幼稚園児くらいと思しき幼い少女は元気よく挨拶をする。
彼は途惑いながらも、礼儀として軽く頭を下げた。
「こんにちは!」
少女はなにが楽しいのか、にこにこと笑顔を向けてくる。、なにがしたいのかさっぱり理解できない彼の前で、なおも彼女は挨拶を繰り返した。
どうしたものかと押し黙る彼に、彼女の顔が曇りだした。
まずい、泣く――そう思った瞬間、少女は大きく口を開けて泣き出した。まさに青天の霹靂、なにが気に食わなかったのかもわからないまま、彼女は大粒の涙を惜しげもなく溢れ出させ泣いている。
彼はおろおろとポケットを探り、ハンカチを引っ張り出した。
「泣き止め」
さすがに我ながらもう少しマシな言い方はなかったのかと思う。そんな言葉で泣き止むのであれば、最初から泣き出したりなどしないだろう。
矢張り少女は泣き止むことをせず、差し出したハンカチは宙に浮いたままになった。所在無く立ちすくむばかりの自分にがっくりと肩を落しつつ、致し方なく地面に膝をついた。
自分の膝までくらいしかない彼女の視線に合わせるため、しゃがみこんでハンカチを差し出す。泣きじゃくる子どもの世話など生まれてこの方したことはないが、とにかく泣きやませなければとハンカチで涙を拭い、頭をぽんぽんと撫でた。
彼女の視線は、じっと彼に注がれる。まだ泣き止みきらない濡れた黒い目が、大きく見開いたまま覗きこんでくる。
苦手だと、本能的に感じた。
なにもかも見透かすような眼差しが、後ろめたいことなどないのにどうにも居心地が悪い。
これがもし真剣勝負の真っ只中であるのなら、むしろ腹の探り合いも先手の読み合いもまた楽しいものなのだろううが、ただじっと見つめられるという経験はあまりない。
なにかを探っているような気配はするのだが、少女がそれをする必要性がわからない。そのためただただ居心地悪くて、勝手に体が引けてしまう。
やむなく自分もじっと見つめ返すと、泣いていた顔がぱっと明るく晴れ渡った。
「おにいちゃん、こんにちは!」
「……こんにちは」
「はじめまして、はるかです!」
「はじめまして……」
「おなまえは?」
「護」
素っ気なく返したのに、遥と名乗った少女は嬉しそうに笑った。
そればかりか、両手を広げて護に抱っこをせがんだ。
「どこの子だ? 家がわかるのなら送ってやるから、抱っこは勘弁してくれ」
「いや!」
「いやじゃなくて……迷子はおとなしく言うこと聞いてくれないか?」
「はるか、まいごじゃないもん。まいごはおにいちゃんだもん」
咄嗟に道場の子かと考え付いたが、聞いた話ではこんな小さい子どもなどいなかったはずだ。であればなぜ自分が迷子になっていることを知っていたのか、どこでわかったのか、護は眉を顰めて遥を眺めた。
見た目のあどけなさに惑わされて、なにかとんでもない本質を見落としている気がする。
注意深く見つめる護に、遥はくるりと上半身を反転させるともと来た道を指差した。
「きょうはケーキやさんおやすみ。おだんごやさんはあいてるよ」
「なんでわかった」
甘党であることは、隠してもいないが公言もしていない。
そのツラで甘いものが好きなのかと、揶揄されることが煩わしいからでもあり、自分でもほんの少しだけ恥かしいと思っているからだ。ことさら広めるでもないことだし、護の甘いもの好きはまだそれほど知れ渡っていないはずだった。
なにより今日はじめて会ったばかりの少女に、それを見透かされ指摘されるなどありえない。
黙ってしまった護に、遥はにこにこと笑いながら両手を差し出した。
「おむかえにきたの」
「俺をか?」
「うん」
「なぜ?」
「だってはるかは、おにいちゃんのおよめさんだもん」
胸に生じた疑問と、放たれた言葉の乖離具合で頭が痛い。
剣術一筋で男女の色事など面倒臭いで通してきたというのに、ここへ来てこうなるとは思いもよらないことだった。
たかが子どもの言うことと、一笑に付すのは簡単だ。だが先ほどからの奇妙な符丁に、妙な胸騒ぎがする。
目の前にいるのはどう見ても子ども、それもまだ年端もいかない幼子。
自分はこんな幼い子に手をつけるような真似をしたのか、それともこれからするのか、だとしたらとんでもなく拙いことになるのではないかと、頭の中がいまだかつてない混乱に襲われる。
逃げることも考えたのに、遅れをとった。
いつまでも動かない護に焦れたのか、遥からひょいと護の胸元へ飛びこんできたのだ。
抱きつかれたことにどうしていいのか、つい万歳と挙げてしまった両腕の行方や、満足そうな遥の様子や、こんなところを見られたらどうなるのか、考えすぎているうちに逆に吹っ切れてしまった。
ままよと遥を抱き上げて、重い荷物と竹刀も抱えた。
「家はどっちだ?」
「おだんごやさんは?」
「あとで行く」
「またまよっちゃうよ?」
「大丈夫だ」
とりあえず少女が来たと思しき方角へ、足を向けて歩き出す。
楽しそうに話しかけてくる少女の声は華やいで、もうすぐ来る春の季節に似合っていた。どこかの庭からはみ出している木々の枝も、綻びはじめた芽を見せる。やがてどこからともなくウグイスでもやって来て、この少女も赤いランドセルが背負うのだろう。
いい季節だと目を細めてながら、少女を抱えゆっくりと歩いた。
このところずっと剣術修行に追われて、季節の移ろいを感じる暇もなかった。
偶にはこうして歩くのも悪くない。
そう思いはじめた頃、両腕の重みがずっしりと増した。
寝てしまったのだと気付いて、足を止めた。
曲がり角まで差し掛かって、どちらへ向かうべきなのかきょろきょろとあたりを見回したとき、ちょうどそこに青ざめた顔で走り寄ってくる女性と出くわした。
母親だとすぐにわかって、護は声をかけた。
こうして小さな女の子と迷子の剣士の冒険は、彼女の眠っている間に終わってしまった。

その後、護は彼女の母親から駅前で見かけたと知らされた。
ケーキ屋を探してうろうろしていたところだったから、それで迷子だと知られていたのかと得心した。
お嫁さん発言を伝えるのはさすがに気恥ずかしく、彼女の母親には伏せてしまった。
何度も頭を下げる母親に会釈だけを返しながら、護は素っ気なく背中を向けた。
末来の花嫁を名乗る少女と別れて、そのまま立ち去るつもりだった。しかし、何かが妙に気にかかり、護は一度だけ振り向いた。
優しそうな母親の手を握って、幸せそうに寝入っている姿になぜか安堵する。
こんなに平和な国に生まれ穏やかな家庭に恵まれているのだから、不幸など降りかかるはずもないだろう。
――忘れよう。
胸に過ぎった奇妙な不安を押し殺して、護は歩き出した。
春の匂いが血の匂いに変わることなど、このときはまだ考えもしていなかった。
子どもの頃――
まだ人を斬り捨てる刀ではなく、竹刀を携えていた頃の冒険は、真っ直ぐ夢を追いかけ歩いていくことだった。
新しい世界へ飛びこむことに、不安も畏れも感じなかった。
それはまだ、胸の奥底で鈍く淡く、研ぎ澄まされるのを待つ剣士の血に気付かずにいた子どもの頃の話。
まだ繋ぐべき手と結ばれていない頃の、幸せな遠い記憶の話。
それが二人の、出会いだった。
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Author: わたあき様
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