闇に浮かぶ月
失うのは怖くない
何の変哲もない、白い扉。
その扉を開けると、しんとした未明の部屋に、銀の光が舞っていた。
ほんの少し前まで感じていた、闇に渦巻く混沌をすべて浄化するが如く清冽な光が、無造作に置かれた物たちに降り注いでいる。
段ボール、上着、鞄、そして杖。
万物の始めからそこに在り、そして今に至るまでずっと、そうしていたかのように静止している。
まるで、これから先もずっと、動くことなど無いかのように。
でも、それは違う。
私には、それらの物たちを掴み、操る彼の姿が眼に浮かぶ。
この部屋の中で緩やかに動く、彼の姿が。
規則正しく聞こえてくる、ベッドからの寝息だけが、生ける者の息吹。
後ろ手で扉を閉めてしまえば、階下から洩れる賑やかさも、綺麗に消えた。
扉の正面、大きく切り取られた窓を見つめる。
眼の見えない彼には関係ないのか、カーテンは寄せられたまま。
ふと視線をずらし、椅子に投げ出された上着を直そうとして、手を止める。
思わず息を呑んでしまう。
"五センチズレても、俺には見えないんだからな"
そう言われたのを思い出したから、ではない。
夜目にも見て取れる、戦闘の痕跡があったからだった。
革のジャケットに浮き上がる筋。
弾道、だろう。
真夜中の新宿御苑で行われた作戦は、一見すれば無謀でしかないもの。
けれど、それは十分に勝算があるものだったのだろう。
そして彼は、有言実行してみせた。
――けれど、やはり紙一重の勝利ではあるのだ。
実力ではどんなに劣っているのだとしても、何十人もの不逞の輩が彼一人を狙ってきたのだ。怪我ひとつ負っていない方が奇跡と言える。
おそるおそる、手を伸ばしてみる。毛羽だってる……ううん、焼けているんだ。
弾が掠めた時に熱で焼けてしまったのだろう。これは、直せないだろうな。
こんなものが、護さんの躯を狙っているなんて。
知らず詰めていた息を、吐き出す。
すると、自分でも思ってないくらいに、吐息が部屋に響く。
思わず、はっと振り返る。こっそり入ってきた自分が悪いんだけれど……
大丈夫。部屋の主は、少しも変わらず寝息を立ててる。
うつ伏せた躯。
投げ出した四肢は長い。うん、贔屓目無しでも、凄く均整の取れた躯だ。
少しこけた頬。通った鼻筋。大きめの唇。口の端がきゅんと上がってる時は、皮肉屋な時。井川さんや、私をからかう時。 そして目元の傷痕。
彼の、光を奪ってしまった、もの――
ゆっくりと、ベッドへ近付いた。
枕元で、跪く。
月明かりは背後の壁に落ちて、部屋の中を白々と照らす。
長い前髪が、目元に落ちているのを少しずつ、払っていく。
汗で固まってたりする。そういえば、汗に混じって違う匂いもする。
血と、煙った匂い。
だけど、少しも嫌じゃない。汚いとも、思わない。
変なの。でも、ちっとも気にならない。
前髪を除けてみても、護さんは一向に目を覚まさない。
僅かに開いた唇から、規則正しい呼吸が聞こえているだけ。
私はまた、ゆっくりと手を伸ばした。
指が震えそうになる。それを励まして、そっと頬に触れた。
硬い頬。少しざらざらしてる。
あ……今気付いた。護さん、まつげ長いんだ。
どきどきしながら、少し撫でてみる。うわぁ、私って大胆。
普段、絶対に近寄らせてくれない野生のライオンとか、虎とか――そういう動物をよしよしって、撫でてる気分。
うん、だって起きてる時は絶対出来ないよ――だけど、今は少しだけ――
その時、急に薄く開いた唇から、息が漏れた。
それと同時に腕を掠めてく何か――
目を覚ました?
反射的に手を引っ込めた……あれ?
まじまじと見つめると、未だ起きる気配の無い、護さん。
腕を掴まれたかと思ったのは、ただ手が動いただけ、のよう。
小さく身じろぎしただけで、また動きは止まってしまった。
私は苦笑してしまう。
彼が、どれだけ神経をすり減らして闘っているか、解っているのに。
ことあるごとに、私と隔てようとする壁を感じる。
その壁を現わしているのは、護さんだ。
私が寄り添うのを拒み、隔てる壁。
だけど、だけどね?
私を捉える闇の枷を、断ち切って手を引いてくれたのは、貴方なんだ
だから迷わず飛び込んだ――闇に光る月を、見失わないように
人差し指を、自分の唇に這わせた
そしてそっと、彼の唇へと移す
柔らかな感触 温かな息
生ある者だけが もたらす証左
失うのは怖くない
ううん――たったひとつ 失うのが怖いもの
背を向けられたって 手を振り払われたって構わない
彼の鼓動が奪われない限り
何処へだって 追いかけていけるから
何の変哲もない、白い扉。
その扉を開けると、しんとした未明の部屋に、銀の光が舞っていた。
ほんの少し前まで感じていた、闇に渦巻く混沌をすべて浄化するが如く清冽な光が、無造作に置かれた物たちに降り注いでいる。
段ボール、上着、鞄、そして杖。
万物の始めからそこに在り、そして今に至るまでずっと、そうしていたかのように静止している。
まるで、これから先もずっと、動くことなど無いかのように。
でも、それは違う。
私には、それらの物たちを掴み、操る彼の姿が眼に浮かぶ。
この部屋の中で緩やかに動く、彼の姿が。
規則正しく聞こえてくる、ベッドからの寝息だけが、生ける者の息吹。
後ろ手で扉を閉めてしまえば、階下から洩れる賑やかさも、綺麗に消えた。
扉の正面、大きく切り取られた窓を見つめる。
眼の見えない彼には関係ないのか、カーテンは寄せられたまま。
ふと視線をずらし、椅子に投げ出された上着を直そうとして、手を止める。
思わず息を呑んでしまう。
"五センチズレても、俺には見えないんだからな"
そう言われたのを思い出したから、ではない。
夜目にも見て取れる、戦闘の痕跡があったからだった。
革のジャケットに浮き上がる筋。
弾道、だろう。
真夜中の新宿御苑で行われた作戦は、一見すれば無謀でしかないもの。
けれど、それは十分に勝算があるものだったのだろう。
そして彼は、有言実行してみせた。
――けれど、やはり紙一重の勝利ではあるのだ。
実力ではどんなに劣っているのだとしても、何十人もの不逞の輩が彼一人を狙ってきたのだ。怪我ひとつ負っていない方が奇跡と言える。
おそるおそる、手を伸ばしてみる。毛羽だってる……ううん、焼けているんだ。
弾が掠めた時に熱で焼けてしまったのだろう。これは、直せないだろうな。
こんなものが、護さんの躯を狙っているなんて。
知らず詰めていた息を、吐き出す。
すると、自分でも思ってないくらいに、吐息が部屋に響く。
思わず、はっと振り返る。こっそり入ってきた自分が悪いんだけれど……
大丈夫。部屋の主は、少しも変わらず寝息を立ててる。
うつ伏せた躯。
投げ出した四肢は長い。うん、贔屓目無しでも、凄く均整の取れた躯だ。
少しこけた頬。通った鼻筋。大きめの唇。口の端がきゅんと上がってる時は、皮肉屋な時。井川さんや、私をからかう時。 そして目元の傷痕。
彼の、光を奪ってしまった、もの――
ゆっくりと、ベッドへ近付いた。
枕元で、跪く。
月明かりは背後の壁に落ちて、部屋の中を白々と照らす。
長い前髪が、目元に落ちているのを少しずつ、払っていく。
汗で固まってたりする。そういえば、汗に混じって違う匂いもする。
血と、煙った匂い。
だけど、少しも嫌じゃない。汚いとも、思わない。
変なの。でも、ちっとも気にならない。
前髪を除けてみても、護さんは一向に目を覚まさない。
僅かに開いた唇から、規則正しい呼吸が聞こえているだけ。
私はまた、ゆっくりと手を伸ばした。
指が震えそうになる。それを励まして、そっと頬に触れた。
硬い頬。少しざらざらしてる。
あ……今気付いた。護さん、まつげ長いんだ。
どきどきしながら、少し撫でてみる。うわぁ、私って大胆。
普段、絶対に近寄らせてくれない野生のライオンとか、虎とか――そういう動物をよしよしって、撫でてる気分。
うん、だって起きてる時は絶対出来ないよ――だけど、今は少しだけ――
その時、急に薄く開いた唇から、息が漏れた。
それと同時に腕を掠めてく何か――
目を覚ました?
反射的に手を引っ込めた……あれ?
まじまじと見つめると、未だ起きる気配の無い、護さん。
腕を掴まれたかと思ったのは、ただ手が動いただけ、のよう。
小さく身じろぎしただけで、また動きは止まってしまった。
私は苦笑してしまう。
彼が、どれだけ神経をすり減らして闘っているか、解っているのに。
ことあるごとに、私と隔てようとする壁を感じる。
その壁を現わしているのは、護さんだ。
私が寄り添うのを拒み、隔てる壁。
だけど、だけどね?
私を捉える闇の枷を、断ち切って手を引いてくれたのは、貴方なんだ
だから迷わず飛び込んだ――闇に光る月を、見失わないように
人差し指を、自分の唇に這わせた
そしてそっと、彼の唇へと移す
柔らかな感触 温かな息
生ある者だけが もたらす証左
失うのは怖くない
ううん――たったひとつ 失うのが怖いもの
背を向けられたって 手を振り払われたって構わない
彼の鼓動が奪われない限り
何処へだって 追いかけていけるから
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